まるでフォレストガンプ 日本とブラジルをつないだ船「笠戸丸」の数奇な運命

昔、笠戸丸という船がいました。

外国で生まれ、日本で育ち、そして戦争に散った船。

これは、そんな数奇な運命を辿った1隻の船の話しです。

最初の航海

笠戸丸は、1900年に貨物客船としてイギリスで建造されました。当時の船名は、「ポトシ

笠戸丸 写真提供 神戸市

その後、ロシア義勇艦隊協会に売却され、名前を「カザン」と改名します。

この頃、日本は日清戦争で勝利し、ロシアの南下を食い止めていました。しかし、東アジア覇権を目論むロシアは、ドイツ、フランスと手を組み、日本に「三国干渉」というプレッシャーをかけてきます。

3国側の要望は、『日清戦争で得た領土の所有権を放棄せよ』というものです。これに対し、国力が不足していた日本は、遼東半島の領土放棄を認めざるを得ませんでした。

しかし、更にロシアは清国の領有権を主張し、朝鮮半島にまで軍を配備し始めます。そして、ロシアによる東アジアの軍事的脅威にさらされた日本は、ロシアと対立するイギリスとアメリカを一時的に味方に付け、1904年、日露戦争に突入します。

この戦争当時に、ロシアに属していた「カザン」は日本軍の攻撃を受け、旅順港で着底します。

そして、日露戦争が終結した1906年(明治39年)、海底からサルベージされた「カザン」は、「笠戸丸」と改名し東洋汽船が借り受けることとなります。

ブラジルへの旅

同じ頃、皇国移民会社(外務省資料によると皇国殖民合資会社)が、ブラジルサンパウロ州と移民契約に臨んでいました。

皇国移民会社の水野龍(みずのりょう)は、数度の交渉の末に、1907年(明治40年)11月6日サンパウロ州ボテリョ農務長官と移民派遣の契約調印に至ります。

契約内容は要約すると以下のようなものです。

「向こう3年間にコーヒー農場の労働者として、家族移民3千人を日本国内で募集し、第1回目に1千人をブラジルのサントス港へ輸送すること」

家族を要件としたのは、ブラジル側が耕作地への定住を望んだからです。

しかし、国内では外務省が難色を示します。ブラジル側が、1908年(明治41年)の5月までという短期間のうちに、第1回目の輸送を求めたからです。

出発まで残り半年もない外務省は、5月までに多数の家族を集めるのは不可能だとして、半年延期のプランをブラジル側に打診します。

しかし、ブラジル側は『延期は受け入れられない』と回答。日本は大急ぎで募集を開始します。

そして、ようやく集まったのは781人。男600人、女181人です。他に、農業従事者ではない自由移民が12人。結局、家族移民を集めることは難しく、偽装夫婦や偽装の兄弟も多数含まれていました。

出身は、沖縄県325人、鹿児島県172人、熊本県78人、福島県77人、広島県42人。農業移民とは言いながらも、実際には農業経験のない者が多数を占めていたそうです。

そして、1908年(明治41年)4月28日

契約移民781名を載せた笠戸丸は、壮行の花火が打ち上げられる中、神戸港を出航し、50日余りの航海の末、6月18日ブラジルのサントス港に到着します。

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豪華客船としての出発

1909年(明治42年)、移民船としての役割を終えた笠戸丸を、大阪商船が海軍省より借り受けます。

そして、豪華客船への大改造を行い、笠戸丸は台湾航路の定期便へと生まれ変わります。

この台湾航路への定期便は、1927年(大正16年)まで就航されることとなります。この台湾航路も出発港は神戸です。当時の日本人からすれば、神戸港から外国へ行く豪華客船は、遥かなる地への旅として、憧れの的であったに違いありません。

その間、1917年(大正6年)には、南米への移民航路船の準備として、リオデジャネイロとブエノスアイレスに寄港しています。この頃は、1914年から開戦された第一次世界大戦の真っただ中です。主な戦場はヨーロッパですが、植民地も含めて世界中の国々がこの戦争に巻き込まれていきます。

日英同盟に基づきイギリスから参戦を要請された日本も、連合国としてドイツに宣戦布告をします。そんな中、当時のドイツの潜水艦は、『無制限潜水艦作戦』というものを実行していました。

これは、敵と見受けられるものは無警告で全て撃沈させる、という戦時国際法を無視した作戦です。

このような戦時状況により、南米へ向かおうとしていた笠戸丸は香港の港で船体を迷彩塗装に塗り替え、出航することになりました。

最後のハワイ移民船

1924年(大正13年)

排日移民法が米国議会を通過したこの年、笠戸丸は最後のハワイ移民320名を乗船し、同年6月14日に神戸港を出港します。

この排日移民法により、米国はヨーロッパを始め、アジア各国からの移民受け入れを大幅に制限します。特に、アジア出身者については、急増する移民者数を問題視し、全面的に移民を禁止する条項が設けられます。

明治当初からの先行して渡航した日本人移民は、従来よく働き文化的であったとされています。

しかし、全体として日本人コミュニティーは閉鎖的であり、稼いだ外貨は大半を日本に送金するなど、米国の反感を買う面もあったようです。また、経済的に成功する日本人が現れ始めたことも、問題視されたようです。

病院船として

1926年(大正15年)

袁世凱政権崩壊後の中国は群雄割拠の時代に突入していました。孫文は軍閥と手を組み中国の統一を図りましたが、孫文と手を組んだ軍閥はアヘンや賭博が蔓延しており、民衆の生活を圧迫していました。そのため、孫文は自身の信条である三民主義に基づいて、中国を統一する新たな軍隊、国民革命軍の基礎を造ります。

南京事件

同年7月1日、国民革命軍は北伐を開始し、翌1927年には南京と上海を占領します。勢いに乗じた南軍は中国の統一を図ります。この間、1927年3月24日、北伐の途上において、南京を占領した際に外国領事館と居留民に対する襲撃事件が起こります。

サンパウロ新聞WEB版によれば、この時、笠戸丸は病院船として揚子江に上り、けが人を収容しています。

イワシ工船、ニシン工船そして蟹工船

1930(昭和5年)年から第2次世界大戦終結の1945年までの間、笠戸丸は、日本初のイワシ工船、ニシン工船そして蟹工船へと民間活用されていきます。

1930年(昭和5年)、東洋興行へ売却された笠戸丸は、イワシ工船としてウラジオストク沖まで漁に出ます。しかし、このイワシ漁は不漁であったため、翌年には漁が中止。

同じく、1932年(昭和7年)、新興水産に売却。1941年までミール工船、蟹工船として北洋で活躍します。

しかし、太平洋戦争が勃発した1941年(昭和16年)、笠戸丸は民間物資を運ぶ輸送船の目的で、再び政府に吸収されてしまいます。

最後の出航

そして、1945年(昭和20年)7月27日

食料と北方警備の兵を乗せた笠戸丸は、小樽港を出港します。千島で兵と武器を下ろし、カムチャッカ西海岸のウトカに到着。

その後、前年の漁で採ったサケ、マス工場の缶詰を積載し、8月9日内地へ向けて帰港準備を開始します。

奇しくも、この日の前日、8月8日午後5時(日本時間:午後11時)、ソ連は日本に宣戦布告をしていました。

そして運命の8月9日

笠戸丸はカムチャッカ沖にて、ソ連空軍飛行艇により爆撃を受け撃沈

その生涯を終えます。

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石狩挽歌

演歌「石狩挽歌」の一節に、

「沖を通るは笠戸丸 わたしゃ涙で ニシン曇りの空を見る」

と詠われた歌詞があります。工船「笠戸丸」の出航姿を歌ったものです。

「石狩挽歌」は、今では衰退してしまったニシン漁に夢をかけた男と、その男の帰りを待つ、女の寂しさが感じられる歌です。

 

しかし、笠戸丸の運命を知る者がこの歌を聴けば、

数奇な運命をたどって海に消えた船「笠戸丸」の哀愁のように感じられます。

  • 外務本省資料 笠戸丸と初期移民
  • 国立国会図書館資料 ブラジル移民の100年
  • 宇佐美昇三『笠戸丸から見た日本:したたかに生きた船の物語』 東京 海文堂出版 2007
  • 石狩挽歌 作詞:なかにし礼 作曲:浜圭介
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