この子らを世の光に 相模原障害者殺傷事件から糸賀一雄の言葉に迫る

相模原 障害者殺傷事件

誰もが納得がいかない大量殺人事件

この事件をとおして、皆が、様々なことに疑問を持った

障害者とは何か

社会が共存することとは何か

ただの猟奇的殺人事件のニュースでは済まない、様々な思いが日本に渦巻いた

ここには、NHKのニュースでは放映されない現実がある

ネット上では時間が経過する程に、様々な意見が溢れ出していた

決して少なくないこのような声

  • 障害者は、亡くなってしまった方が良い場合が有るのではないでしょうか?

  • 残された家族は、助かったと思った人たちも居たのではないのか?

  • 死んでしまった方が本人のためにも良いと思われることも、世の中には存在するような気がする・・・

そして今、こんな言葉がクローズアップされている

「この子らを世の光に」

糸賀 一雄(いとが かずお)の言葉だ。

糸賀 一雄は、1914年生まれ、社会福祉の代表とされる人物

特に、

知的障害を持っている子供たちのために、その社会的福祉制度の確立と教育に対して生涯を捧げた

社会福祉の父とも呼ばれる

この子らに

日本の重症障害児福祉の草分け「近江学園」の建設史であるこの書の題名は、世に障害者の存在証明を問うたものである

私たちは皆、日々色々な場面で障害者と接して生活している

横断歩道

住みよい社会とは一体何だろうか?

弱者を無視、あるいは迫害するような社会は、「自分に対する福祉の絶対量を減少させる」と、糸賀一雄は考える

社会福祉とは、社会と言う大きな集団が、全体として「福祉的」でありさえすればよいというのではない

また、社会が豊かで富んでさえいれば、その中に生きている個人がたとえ貧しくとも、苦しんでいる者がいたとしてもかまわない、というものでもない

社会福祉というのは、社会の福祉の単なる総和をいうのではなく、

その中に存在するあなた個人に対して実現される姿を指している

 

だからこそ、糸賀一雄は、彼ら、彼女らは私達と共に生きているのだと考えた

そして、著書の題名を「この子らを世の光に」とした

彼が考えるこの題名は、この子らに対して、社会皆で光を与えてあげよう」という意味ではない

もしも、「この子らを」が「この子らに」となれば、子どもたちは哀れみを求める対象となる

 糸賀一雄は、

「弱者こそ、社会を形成しているのだ。」

と言う

確かに、「誰もが勝ち組」、「皆が強者な社会」というものは成り立たないだろう

一体、何が人間性のバランスを保つというのか?

弱者がいる世界が当たり前なのだから、お互いに共存することが当たり前なのだ」

そう考える事が、自らの社会を作り世の中のバランスを保つ

 

だから、この著は「この子らに 世の光を」ではなく

「この子らを 世の光に」 となったのだ

強者だけの世界は存在し得ない

あらゆる存在が絡まって、助け合うこと、共に存在できることこそ「社会」だ

障害者は決して、社会の都合、人の傲慢で排斥される対象ではないだろう

↓障害を持つ児童が入園できる、保育園を作った聖愛園についての筆者の感想です

障害を持つ子が入れる保育園 野島千恵子園長と聖愛園を見て思ったこと

↓自閉症の東田さんが自ら綴ったサイトです

自閉症の方が何を考えているのかが垣間見えます

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